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本庄繁長や越後揚北衆らを語る

1 :人間七七四年:2008/01/26(土) 20:59:30 ID:gqN2C7ds
越後北部に割拠し謙信にも一目置かれた存在だった本庄繁長や、
色部・新発田・黒川・中条・水原といった独自性が強かった揚北衆についても語りましょう。


■関連スレ
北条高広
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1189679152/
【毘】上杉家を語る 九【義】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1190692932/
上杉景勝
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1168972775/
【何故負けた?】上杉景虎【御館の乱】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1154969043/

2 :人間七七四年:2008/01/26(土) 21:38:06 ID:gqN2C7ds
伊達稙宗が越後上杉に入嗣しようとしていた伊達実元は、中条藤資の妹が母親。
中条の権力拡大を恐れた他の揚北衆は、晴宗側について天文の乱を戦ってる。

3 :人間七七四年:2008/01/26(土) 23:17:06 ID:af/WtBc1
上杉定実の娘が母親じゃないのか

4 :人間七七四年:2008/01/27(日) 00:00:58 ID:+SKkOog2
揚北とされる武将たちとその居城がよく分からん。
彼らの勢力差も序列もあまり知らない。

こんなイメージ
中条「みんな俺みたいに謙信様についてこいよ!」と空気読まずに一人ほたえてる
加地「僕って名族? 力あるの?」
本庄「じゃんじゃんばりばり、独立大名だぜ。大宝寺? お前俺の家来な」
新発田「俺って景勝に逆らった他に何やってんだっけ」
黒川「俺も中条とドンパチした他に何やってんだっけ」
水原「親憲は後から来た養子で、それまで俺なんてあまり知られてない消え行く名族の一つだったみたいよ」

5 :人間七七四年:2008/01/27(日) 02:49:41 ID:a37XKOii
>>3
wikiを見ると、諸説有るようだ。

>・正室(蘆名盛高の娘)
>・上杉定実の娘
>・中条定資(藤資か?)

>>4
この辺りを参考に。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8F%9A%E5%8C%97%E8%A1%86

6 :人間七七四年:2008/01/27(日) 09:48:24 ID:+lmbII9I
ついに本庄スレが立ったか
武田北条上杉伊達最上と戦った男

7 :人間七七四年:2008/01/27(日) 09:59:07 ID:+lmbII9I
あと一揆おこして秀吉ともやりあってるし徳川とは関ケ原後の外交で絡んでるか

8 :人間七七四年:2008/01/27(日) 10:11:00 ID:+SKkOog2
「本庄と揚北」がテーマみたいだけれど、越後揚北における本庄氏は飛びぬけた勢力だったんですか?

9 :人間七七四年:2008/01/27(日) 12:34:34 ID:SE5zkjc3
戦国時代は新発田のがでかかったろ?

10 :人間七七四年:2008/01/27(日) 12:59:33 ID:+SKkOog2
新発田>本庄>中条≧黒川
て感じなんかな。

11 :人間七七四年:2008/01/27(日) 13:12:05 ID:NYZmKO8M
新発田と中条は昔から比較的府内と仲が良かったのかねえ

12 :人間七七四年:2008/01/27(日) 17:00:02 ID:a37XKOii
>>8
本庄は知名度もあるし、所領も越後最北。
庄内の大宝寺に養子を送ってることなども鑑み、特別扱いしても良いと思うけど。

>>9
新発田長敦が当主だった頃は良かったけど、
重家が当主になって謀反を起こしたことで全てがぶち壊しになった。
御館の乱の恩賞が原因と聞くが・・・・・・。

13 :人間七七四年:2008/01/28(月) 02:01:25 ID:YtcIMe39
景勝や直江のひいき人事のせいだよ

14 :人間七七四年:2008/01/28(月) 08:45:57 ID:V23pLJTi
天地人では悪役になっちまうのかな?>新発田重家

15 :人間七七四年:2008/01/28(月) 12:20:22 ID:VXU5Lt1H
本庄繁長って大宝寺領めぐって上杉景勝の支援なしに最上義光と争っているね
繁長ってなかば独立した勢力として上杉方や他勢力に認識されていたのかな?

16 :人間七七四年:2008/01/28(月) 12:24:16 ID:lFBsRibX
甲斐の郡内小山田氏みたいなもんですか?


17 :人間七七四年:2008/01/28(月) 13:54:29 ID:jEP1gp2a
小山田は、謙信政権でいうと、上田長尾じゃないかねえ。
むしろ織田と徳川では?

18 :人間七七四年:2008/01/28(月) 15:12:12 ID:d/BGAdwg
>14
原作だと雑魚同然の扱いだったが…
俺は景勝好きだけど、欠点は欠点としてきちんと描いてほしいのだがなあ
(贔屓人事の話や、新発田勢に一度ならずも散々打ち破られたこととか)

19 :人間七七四年:2008/01/28(月) 15:32:33 ID:MB2Tr6sU
新発田が奇襲で景勝勢を散々打ち破ったんだっけか。俺も景勝好きだけど苦い経験として描いていいと思うだけどなあ…
しかし本庄くらい無茶苦茶やっといて平穏な晩年を過ごした人物も珍しいね。

20 :人間七七四年:2008/01/28(月) 15:37:38 ID:MB2Tr6sU
>>15
最上スレに庄内獲った勢いで東根まで攻め込んでそこで義光に負けたってあるね。
地盤の固まらないうちに内陸奥深くまで攻めるその根性がいいw

21 :人間七七四年:2008/01/28(月) 17:27:01 ID:YtcIMe39
さくらんぼ東根

22 :人間七七四年:2008/01/28(月) 17:30:40 ID:otdRO5Rc
>>20
長谷堂でもそのあたりで庄内上杉軍の侵攻が阻止され敗退してるんだっけか?

23 :人間七七四年:2008/01/28(月) 20:48:26 ID:G+cCnqnc
なんで色部氏はスルーされてるの?

24 :人間七七四年:2008/01/28(月) 21:22:38 ID:YtcIMe39
越前殿と仲が悪いから…


新発田と義兄弟なのにorz

25 :人間七七四年:2008/01/28(月) 21:26:24 ID:mu2/sqo2
江戸時代初期の、上杉家臣団の禄高の記録があり、それには
直江山城守3万石、本庄出羽守2万石とあるんだけど、米沢時代なのに
会津にいたころよりも本庄の禄高が高いのはなんでだ?

26 :人間七七四年:2008/01/28(月) 21:28:25 ID:tZR1bWGE
米沢で万石貰ってた家臣っているの?

27 :人間七七四年:2008/01/28(月) 23:30:44 ID:YtcIMe39
本庄は、米沢ではなくて福島城周辺にそのまま残った。寛永年間まで代々福島城主ですた

28 :人間七七四年:2008/01/29(火) 01:37:05 ID:zamHvRRk
本庄って上杉の下川中島や関東攻めには加わってるけど北陸方面には関与してたのかな?

29 :人間七七四年:2008/01/29(火) 04:46:45 ID:E+oFpzSM
そもそも海軍力はあったの?

30 :人間七七四年:2008/01/29(火) 05:03:31 ID:YCG/G5qy
>>25
wikiでは3300石になってるよ
>>27
城主じゃなくて城代じゃなかった?

31 :人間七七四年:2008/01/29(火) 05:25:11 ID:zamHvRRk
wikiに載ってる繁長の浮世絵かっこええ

32 :人間七七四年:2008/01/29(火) 18:00:44 ID:RMyA7iPl
>>17
反逆する徳川w

33 :人間七七四年:2008/01/30(水) 14:17:17 ID:1+uKf1wi
じゃあ成田で

34 :人間七七四年:2008/01/30(水) 20:13:05 ID:he3xlkgW
粟島は色部領だったらしい。
粟島の海産物は色部に献上されていた。
つまり岩船港も色部領だったのかも。
海軍も居たのかな?

35 :人間七七四年:2008/01/30(水) 21:34:27 ID:1+uKf1wi
岩船港も色部氏が支配してますたよ。水軍についてはわかりませんが…
粟島の海産物の献上については「色部氏年中行事」に記述がありますな。

36 :人間七七四年:2008/01/31(木) 02:54:52 ID:oH5Zwxko
色部は米沢に移ってから代々家老の家柄になったんだっけ?

37 :人間七七四年:2008/01/31(木) 22:28:16 ID:Ppv7QZOV
上杉祭だと本庄繁長の幟には牛の角みたいな家紋が書かれてる
幾ら調べてもお目にかかれない珍しい家紋
通常、本庄繁長の旗といえば「上」の一字なんだが・・・
これってなんだろうな〜
ttp://gazo03.chbox.jp/home/gazo03/data/gazo/army/src/1201785993137.jpg

他にも中条藤資が「山」の一字だったり
北条高広が三つ鱗だったり

38 :人間七七四年:2008/01/31(木) 23:54:39 ID:VhuMTZbj
>>37
北条、北条違いだなあこれじゃw
実際は毛利家と同じ家紋だっけ?

39 :人間七七四年:2008/02/01(金) 07:15:20 ID:w/yaFMpx
>>37-38
上杉祭りの時代考証とかやってるの誰だよw
杜撰にも程度があるぞ。

40 :人間七七四年:2008/02/01(金) 13:12:24 ID:3KpLGVwM
画像が消えてるので再貼り
繁長の牛丼家紋
まぁ義清と被る「上」よりは格好良いけど
ttp://www.sekai.nu/channel/img.php/earth/1201839000.jpg

41 :人間七七四年:2008/02/01(金) 13:14:02 ID:3KpLGVwM
>>40
画像プレビュー出ないな・・・?
でもクリックすれば見れるんで見て下さい

42 :人間七七四年:2008/02/01(金) 21:28:24 ID:Fo11oT8R
牛丼家紋w
吉野家みたら本庄思い出してしまうな

43 :人間七七四年:2008/02/02(土) 02:27:37 ID:jBV8DhnB
ttp://www.sekai.nu/channel/earth/img/1201839000.jpg
これならどうかな?

44 :人間七七四年:2008/02/02(土) 10:34:45 ID:hrhKGP/z
本庄なら吉野家の店員から始めて独立しそうだなw
でその後波瀾万丈のあげく元居た吉野家に戻ると

45 :人間七七四年:2008/02/02(土) 19:07:04 ID:GfEWAhOJ
本庄美作守慶秀はどんな家紋が使われてる?

繁長と栃尾本庄って同じ一族なのかな?
栃尾の方は畠山の庶流って説もあるらしいけど。

46 :本庄顕長ってどぉ? :2008/02/08(金) 13:29:37 ID:8yZt0OBb ?2BP(1)
ここも貼っといてよぉ。
武家家伝_本庄氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/honjo_k.html

>>8さんへ、上記のHPより抜粋。
『侍衆御太刀之次第』によれば、
まず直太刀の衆として一門の古志長尾・桃井・三本寺の名があり、
次に披露太刀の衆として諸大名の名が列記され、
本庄繁長は中条藤資につぐ第二位に名が記されている。
その順序は城中における各将の座席の関係によるものと考えられるので、
当時の上杉家中における繁長の地位がいかに高いものであったかを端的に示したものといえよう。

だけど…
謀反を起こしたから、格下げになってしまったようだ。


47 :8ですよぉ:2008/02/11(月) 14:16:06 ID:+jZMH8sf
そんだけ重んじられるというのは中条辺りが推したのか、
奥郡でも恐ろしく侮れない大勢力だったんですかねえ。

48 :人間七七四年:2008/02/11(月) 23:05:00 ID:CJOo8fd9
当時から鮭がすごかったんだよ

49 :人間七七四年:2008/02/12(火) 00:09:42 ID:EF2T3KE/
>>46
本庄や北条もだけど、謀反する理由がよく分からないね。
軍役が重く出兵拒否とかなら分かるけど、一気に謀反まで行ってしまうのが何とも。
謀略上手の信玄にノセられただけなんかね?

50 :人間七七四年:2008/02/12(火) 02:48:17 ID:U/cfFuEC
おかげで大宝寺まで降服してきて
上杉氏が庄内まで支配できたがな。

51 :人間七七四年:2008/02/12(火) 22:31:19 ID:vxlIwIlP
>>49
謙信女性説の立場からすると、北条や繁長は内心、
謙信を女だと思って侮ってた、
もしくは負けたくない気持ちがあった、と考えてみた。
信玄の執拗な攻撃もこれで頷ける。

一つの可能性として考えて頂けるとありがたい。

52 :人間七七四年:2008/02/13(水) 21:07:43 ID:7/VnFOK3
家格から見て、長尾家は本庄達から見れば格下?

53 :人間七七四年:2008/02/13(水) 21:16:31 ID:VbvvKkMA
本庄・色部・新発田・黒川・中条・水原は長尾以下。
つまり同列かそれより下ってことだね

新津・金津・大井田・山本寺・上条・山浦・田中などは長尾より上

54 :人間七七四年:2008/02/13(水) 21:17:12 ID:VbvvKkMA
あと小国・平賀も格上だった

55 :人間七七四年:2008/02/13(水) 21:49:45 ID:7/VnFOK3
>>53-54
ありがとう。
同格以下なら、侮って謀反とかもちょっとありえないね。

やっぱり、謙信の神がかったキャラクターに呆れ(ry


56 :人間七七四年:2008/02/13(水) 22:10:29 ID:/H2w+VQ+
何を基準に上下が決まるんだろう

57 :人間七七四年:2008/02/14(木) 00:22:53 ID:dML+23I6
三本寺・上条・山浦は上杉の分家筋じゃなかったっけ?

58 :人間七七四年:2008/02/14(木) 09:50:33 ID:t7rLtcJw
>>56
出自だろうね
清和源氏傍流や上杉分家筋は長尾より格上、あとは勢力の規模次第では?
ちなみに揚北衆には、秩父氏っていう古代豪族の末裔が多い

59 :人間七七四年:2008/02/14(木) 22:33:01 ID:ruif6Ws5
>>55
>>51のは、家格というより、
女性ってのを侮ったって事じゃないかと。

>>57
千坂も上杉の分家だけど、
四家老だから長尾と同格くらいかな?
同じ四家老である斎藤・石川はどうなんだろ?

60 :人間七七四年:2008/02/15(金) 10:07:18 ID:aElbsouO
斎藤・石川は出自について不明な点が多すぎるよね
石川は一応、藤原姓だったような気もする

61 :本庄顕長ってどぉ?:2008/02/17(日) 15:38:11 ID:6HtgqHJX ?2BP(1)
>>49さんへ
越後長尾氏は守護代であって、守護が在京していたので、単に守護が持つ軍事指揮権を代行していただけ。
中条・北条・本庄などの国人衆は独立した勢力だったから謀反とは言えないんじゃないかな?
越後守護である上杉氏も、国人衆の支配に苦心していますね。

>>47さんへ
これは北条高広スレで書きましたが…
一応、コヒペしておきます。
じゃあ、本庄氏の財源。
↓結局【謙信最強】を認めざるをえないpart2 に書き込んだレスの縮小版から
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1193474540/240#tag240

3.金山
高根金山・猿田金山(岩船郡朝日村の鳴海山にあった(本庄城(村上城)から北東20キロ地点)、
ぶどう金山(岩船郡山北町東部?) などが採掘場であったようだ。
前の2つは本庄繁長の領地にあるが、永禄十一年(1568)、謙信に反抗したため没収、以後は上杉が直轄していたと思われる。
後に秀吉は景勝を会津へ転封させたが、その理由の一つにはこれら越後金山の利権獲得のためとも言われる。





62 :人間七七四年:2008/02/18(月) 04:13:30 ID:7YjtIFuI
>>61
江戸時代じゃないから家臣じゃないのは分かるけど、
同盟者といった関係でもないよね?

63 :人間七七四年:2008/02/18(月) 04:31:14 ID:JkN6UL6G
越後は家格がけっこう重視されてたもんなぁ。

64 :人間七七四年:2008/02/19(火) 20:56:47 ID:CfRlEndz
本庄繁長の墓のある長楽寺に行ったことがある
お堂があって、そこに繁長の木像が安置してあった
あの辺は、福島駅前と違って城下町の面影を残していて
風情があった
皆さん、是非行って見てください!!

65 :人間七七四年:2008/02/19(火) 21:52:28 ID:4jSrI5wL
>>64
これだね。
ttp://web1.aaacafe.ne.jp/~yataro/echigonobushou-honjyousigenaga.htm

66 :人間七七四年:2008/02/21(木) 19:18:45 ID:wvkY81Ui
天地人に繁長でるかな

67 :人間七七四年:2008/02/22(金) 21:02:18 ID:w0wrr9SL
>>18
亀だけど、新発田城のホームページには
ハッキリ上杉景勝の不当な論功行賞と書いてあるね。
上杉は米沢に国替えされたこともあって、
山梨の武田ほどには新潟で上杉はマンセーされていないのかな。

68 :人間七七四年:2008/02/22(金) 23:54:08 ID:/Nchz7Ba
上杉は結構大切にされてると思うけどね
上杉ではなくて、上杉景勝が嫌われているのかもね
親戚殺しまくったし関ヶ原でも負けたし


69 :人間七七四年:2008/02/23(土) 00:27:16 ID:c+5de4Z8
重家の仲介役をしてた安田顕元が自刃してるから、酷い論功だったんだろうな。
御館の乱で上杉家が弱体化してるのに独自性が強い新発田を軽んじれば、
一体どうなるか分からない景勝や直江でもあるまいに……。
迫る織田家の脅威って、当時はそれほどでも無かったのかな?

70 :人間七七四年:2008/02/23(土) 00:33:34 ID:lVc92xuB
だってまだ武田も滅亡してない頃だし。
北陸に気をつけてればいいだけじゃない?

そういえばこの板の、天地人スレにはわざと新発田を嵌めたんじゃないかって意見もあったな。
意外と信憑性あると思ったけど。
結果的に、この上杉主従にとって最悪のパターンで反乱起こされただけじゃないかとね。

71 :人間七七四年:2008/02/23(土) 08:27:48 ID:bkAlLlep
いや、景勝は重家をすごく気にしていたようだ
春日山に出仕してこない重家を心配している書状もあるし
景勝としては、重家の兄新発田長敦の跡取と所領はすべて認めた事に
よって十分論功行賞してやった、と思ったのだろう
しかし、重家はそれだけでは不満で、新潟湾を竹俣から奪う事で
叛意を示した。
もしかして、新発田は、新潟湾の領有権を望んだのではないか




72 :人間七七四年:2008/02/23(土) 10:42:48 ID:r5XuCUd6
その後も揚北衆の領地削りまくってるから中央集権化狙ってたんだろ
関ヶ原以降まで揚北衆で上級武士として家名繋げれたのは本庄のみ

73 :人間七七四年:2008/02/23(土) 10:44:11 ID:qhBKto3a
織田からの誘いはひっきりなしにあったんだろうな。
景勝側も牽制として本庄にかなり期待してた部分もあるんでない?

74 :人間七七四年:2008/02/23(土) 10:51:54 ID:tYiFUjQg
>>72
色部は上級じゃなかったの?

75 :人間七七四年:2008/02/23(土) 11:19:47 ID:bkAlLlep
>関ヶ原以降まで揚北衆で上級武士として家名繋げれたのは本庄のみ

その本庄だか、庄内の藤島付近の一揆を煽動した疑いを持たれ、豊臣秀吉に
改易され大和国に蟄居させられた。その結果、村上と庄内は完全に上杉の
領土となったのだ。その後、本庄繁長は上杉家に復帰するが、2万石の
一家臣となる。




76 :人間七七四年:2008/02/23(土) 11:36:00 ID:r5XuCUd6
>>74
わすれてたヨ〜

77 :人間七七四年:2008/02/23(土) 18:55:56 ID:izifIc7V
>>67-68
景勝は、嫌われる以前に「景勝って誰?」状態だと思うよ
新発田市は重家マンセーだから、書き方もそうなるんじゃね?

78 :人間七七四年:2008/02/23(土) 20:17:36 ID:EzTASneT
ともあれ、この景勝の代に上杉家の家中統制は大きく進むわけあよね。
色部などは相変わらず独自の支配をしてたみたいだけど、それでも当主に
直江兼続の妹を妻に迎えるなどして政権への取り込みが図られているが。

79 :ぼくらはトイ名無しキッズ:2008/02/24(日) 07:37:51 ID:nJv9LNmr
色部は、新発田重家と縁戚関係だったが、
上杉家臣として戦い、戦功を挙げたから
景勝からの信頼も一層深まったのだろう

80 :>>人間七七四年:2008/02/25(月) 22:28:35 ID:2YQbc3Hw
おもちゃ、好きなの?

81 :人間七七四年:2008/02/25(月) 23:35:09 ID:MpMMy8cw
米沢藩では本庄家は代々分領家(最上級の家柄)で福島城主→鮎貝砦将として遇されているよ。

82 :人間七七四年:2008/02/26(火) 07:47:31 ID:A/lDQRZ3
>>81
有難う!!参考になるよ

83 :人間七七四年:2008/02/26(火) 14:01:13 ID:vJlj83qZ
忠臣蔵に出てくる上杉家江戸家老は色部又四郎。
本庄家は国元で出仕することが中心だったのかな?

84 :人間七七四年:2008/02/26(火) 22:22:32 ID:H300IDS3
米沢藩では上級武士は侍組といい(約90家)それを五つに分け[侍頭]がそれぞれ支配します。その次になれるのは江戸家老→奉行(他藩の家老)。侍頭になれるのはその中でも分領家14家。本庄家は鮎貝砦将と侍頭を兼任していたので江戸にはあまり居ませんでした。

85 :人間七七四年:2008/02/26(火) 22:32:23 ID:H300IDS3
分領14家のうち、揚北出身の家は、中条、本庄、色部、大見安田(途中で侍組に降格)、竹俣、竹俣西(竹俣分家)です。侍頭→江戸家老→奉行になれる家柄です。

86 :人間七七四年:2008/02/26(火) 22:50:20 ID:vJlj83qZ
>>84-82
解説感謝。

87 :人間七七四年:2008/02/26(火) 23:17:04 ID:H300IDS3
でも米沢藩でも多くの家格の高い分家を輩出したのは、千坂と本庄ぐらい。やっぱり上杉家に大切にされた家なんですよ

88 :人間七七四年:2008/02/26(火) 23:20:50 ID:t/jpjP+y
>>85
信濃衆の割合は分る?結構多かった記憶があるのだが

89 :人間七七四年:2008/02/27(水) 00:02:14 ID:Rm+12O87
信濃衆では分領家、島津、平林、清野、市川。須田、芋川は上杉鷹山の時代に当主が切腹され、侍組に家格がダウン。

90 :人間七七四年:2008/02/27(水) 00:09:01 ID:Rm+12O87
米沢藩の話ばかりでスレ間違えてるかな。迷惑だったらすいません。

91 :人間七七四年:2008/02/27(水) 00:22:17 ID:CONsZaFu
いや、いい話だった

92 :人間七七四年:2008/02/27(水) 00:30:27 ID:ZFw58NXL
>>89
ありがとうございます、後は武田と千坂?

93 :人間七七四年:2008/02/27(水) 01:42:00 ID:XlXZOI8K
>>92
武田と畠山(上条政繁の子孫)は高家衆だったかな?
両者とも藩主家の親族

94 :人間七七四年:2008/02/27(水) 09:43:06 ID:7MVXNwLe
武田信清と畠山景広は米沢藩客将(高家待遇)

上杉長員と畠山義真は高家旗本

95 :人間七七四年:2008/02/27(水) 19:35:14 ID:Rm+12O87
米沢藩高家は武田、畠山、山本寺、二本松。藩主一族待遇です。畠山は上条政繁の子孫。二本松はその分家。二本松義継とは関係ありません

96 :人間七七四年:2008/02/27(水) 20:00:38 ID:4pyxKZcp
上条に養子に入ったけど
能登畠山氏に戻ったんだよね。

97 :人間七七四年:2008/02/27(水) 20:05:14 ID:Rm+12O87
そうですね。上杉家を退散したあと、秀吉につかえたときに畠山姓に戻しました。

98 :人間七七四年:2008/02/27(水) 20:21:45 ID:U3Ls9+dN
白井長尾景広の家はどうなったのでしょうか?

99 :人間七七四年:2008/02/27(水) 20:46:09 ID:Rm+12O87
白井長尾家は代々分領家として奉行、江戸家老、侍頭を歴任する重職として繁栄しました。残念ながら総社長尾家は新発田攻めのさい、当主が打ち死にして断絶しました。

100 :人間七七四年:2008/02/27(水) 20:57:17 ID:U3Ls9+dN
ありがとうございます。米沢藩高家にはならなかったんですね。

101 :人間七七四年:2008/02/27(水) 21:05:39 ID:Rm+12O87
ちなみに自分は、戦国期の鮎川家が気になります。

102 :人間七七四年:2008/02/29(金) 20:11:04 ID:05tzht4M
>>101
鮎川の所領って、越後最北?

103 :人間七七四年:2008/02/29(金) 22:16:29 ID:cfHTP7Dw
武田、畠山、二本松、小国、大井田、里見、新津、金津、平賀
あたりは列記とした清和源氏

104 :人間七七四年:2008/02/29(金) 23:26:50 ID:cfHTP7Dw
>>95
>畠山は上条政繁の子孫。二本松はその分家。

どこの代で分家したん?

105 :人間七七四年:2008/03/09(日) 18:57:18 ID:tZ8PQvyA
上条政繁‐畠山景広‐畠山政利‐畠山政乗。政利の代に米沢藩3代藩主綱勝にめしかかえられました。二本松家は政利の次男(政乗弟)で初め利根川親元。のち二本松国隆と名乗りました。

106 :人間七七四年:2008/03/09(日) 21:59:22 ID:Bo5SJz42
景広は何してたの?

107 :人間七七四年:2008/03/09(日) 22:38:38 ID:v5vRjdAv
親父と一緒に大阪かな

108 :人間七七四年:2008/03/10(月) 20:59:04 ID:166EKyUH
景広は父政繁とともに京都に居ました。病気がちで弟に畠山の家督を譲り出家。京都で亡くなりました。[上杉家御年譜]より

109 :人間七七四年:2008/03/10(月) 22:32:06 ID:a6EAT+U9
景広は米沢へ行ったよ

110 :人間七七四年:2008/03/10(月) 23:12:15 ID:QABvNW6T
景広は出家後、土佐で住職をつとめ現地で病没してるね。

111 :人間七七四年:2008/03/11(火) 20:50:28 ID:pZS7Tjip
それ、本当?

112 :人間七七四年:2008/04/11(金) 14:05:41 ID:ITOloTbG
>>67
新潟もばかでかいからねぇ

上越と中越と下越じゃ別の文化だし

113 :人間七七四年:2008/04/11(金) 14:27:15 ID:k+3zhVho
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1201002621/1-100
最古のおにぎり?が上杉景虎自刃の城跡から発見

114 :本庄顕長ってどぉ?:2008/04/15(火) 11:24:22 ID:vPVXqMvO ?2BP(1)
本庄顕長ってどぉ?
>>62さんへ
返礼、お待たせいたしました。
私の説明で分からなかったら、日本史の教科書・資料集やwikiを読んでね!!
元々、守護と国人(御家人・地頭)は、どちらも個別に将軍とだけ主従関係を結んでいたし、
守護と御家人が勝手に主従関係を結ぶことは禁じられていたが…
時代がたつに連れて守護の権限が増加し、
それを使ってなるべく多くの管掌国の国人達を被官にした守護大名(学術用語)へと変化していったんだよ!! 
最終的には守護大名→戦国大名になるわけだね。

1.守護
守護は設立された鎌倉時代(文治元年・1185年)から南北朝時代まで「軍事警察権」を持った幕府の吏僚としての性格が強く、当初の特権は大犯三カ条のみであった。
大犯三カ条とは?
(1).大番催促
(2).謀反人の「検断」(捕らえ、調べ、裁く権利。当然、御家人達を指揮する権利も含む。)
(3).殺害人の「検断」
である。
後の2つは読んで字の如しなので説明カット。つまり国内の治安維持の任務。
大番催促とは?
任国国内の御家人・地頭達(のちの国人)に、京都大番役・鎌倉番役などの任に服させること。
つまりここで、御家人達に対する一時的な軍事指揮権が生まれたのさ。

2.時を経て権限が次第に増加していく。
(1).貞永元年(1232)、夜討・強盗・山賊・海賊などの「検断」が追加。

(2).南北朝時代に入ってさらに軍事警察権が増加する。
まあ、不安定な時代だったからねぇ。
@正平元年・貞和二年(1346)、刈田(苅田)狼藉の「検断」。
刈田狼藉とは、在地領主(国人)間の所領地争いでの実力行使で、稲を強引に刈り取ること。守護はそれを「検断」する権限が与えられた。

A使節遵行権。
これは、幕府の判決を(国人達に)執行する権限。時に強制的に行われた。多くは所領地争いに関するものである。

この時点で、幕府→御家人という軍事指揮権が、恒常的に幕府→守護→国人となっていく。

(3).さらに経済的な権限も追加される。
@正平七年・文和元年(1352)、半済給付。
半済(はんさい・はんぜい)とは、任国国内の荘園や国衙領(朝廷の土地・公田の事。「○○保」とか「××郷」という地名は国衙領)の年貢の半分を兵糧米として徴収できる権利のこと。始めは1年間に限った臨時のものであったが、次第に恒常化していく。
守護は、これによって獲得した兵糧米の土地を被官となった国人達に、所領として与え(つまり「給付」して)、強固な関係を築く。

A同年、闕所預地(けっしょよち)。
敵から没収した領地を守護が預かる事。これも守護が被官国人に所領として与える事で、私的な主従関係が生まれた。
「御恩」と「奉公」で結ばれていた幕府→御家人がこれらにより、次第に守護→国人となるのは自明の理であろうか。

B守護請(しゅごうけおい)
これは、遠くにいる荘園領主(皇族・貴族・寺社など)に代わって守護が、年貢徴収を行い、一定の年貢を手数料として頂くこと。
国衙領でも行われていた。かつては荘園の代官であった地頭・国人達が守護の被官となった事も守護請が進んだ原因の一つ。

これら守護(あるいは国人)による荘園の侵略で、荘園領主(皇族・貴族・寺院)の経済的没落が急速に始まった結果、荘園制度が崩壊していったのである。

C(寺社や幕府の建物などの新築・修繕費である)臨時税の段銭(反銭ともいう。田畑に課す税)・棟別銭(1棟毎に課す税)・夫役(強制労働)などの徴収・徴用の権利も与えられた。(これに関しては、権限は守護ではなく幕府にあったらしい。)→これも戦国時代には恒常化する。

続く

115 :本庄顕長ってどぉ?:2008/04/15(火) 11:27:21 ID:vPVXqMvO ?2BP(1)
3.守護大名
以上、このように守護の権限が軍事的・経済的に増大していく中で、
守護は律令制度崩壊後も僅かに残っていた国衙領の管理権やその支配組織を取り込み、
また各国の一宮の祭祀に関わる権限などを奪取し、
在庁の役人達を守護被官として召し抱えるなど、
一国の公権力としての位置を確立し、
地方領主(守護大名と)化していく。
戦国大名と違い守護大名は、まだ任国の国人を完全に被官化してない、
かつ荘園制度が僅かに残っていたらしい。
揚北衆は、被官化してない国人みたいだね!!

そして幕府も彼らを必要とした。守護大名は、室町幕府の創立に関り、
幕府の役職も兼ねていたから発言力があり、かつ年貢や徴税など財政的にも幕府を支えていた。
有力守護大名は「重臣会議」と言われる政策決定の「閣議」に参加し、
時には新将軍の決定にも彼らの意見・承認が必要になるほどであった。
守護大名の幕府政治への関与は、京への定住を余儀なくされ、
実に関東10カ国・奥羽・九州11カ国を除く44カ国のうちの21家が室町御所の周りに邸宅があり、
領国支配は守護代や家臣(国人)にほとんど任せていたのである。

4.国人・国衆・国人衆
在地領主のこと、『太平記』などの南北朝期の史料に散見される。
地頭領主と区別するために使われたらしい。

(上層の)国人は幕府から安堵された知行地に被官や一族を配置して、支配を強化した。
この所領を守るために、地縁で結ばれた近隣の国人と相互に連携し、
党・一揆を形成した。揚北衆もその一つか? 
中には守護の被官として仕え、段銭の徴収や、郡代・守護代に抜擢され、幕府・守護の支配に協力した。
国人達が戦争に加わるのは、主として「所領拡大」にあるから、通常はおとなしく「守護との縦の絆」を維持するほうが賢明だが、
しかし、守護が国人達の要求に応じない時には、国人達は縦よりも「横の団結を密にして」個々の要求を守護に突きつけたのである。
これが国一揆。

5.越後
越後は、守護の上杉氏が足利氏の外戚ということで守護に登用された。
しかし、すでに鎌倉前期に入国し、一族を多く分立させ所領の支配を強化していた国人達に比べて、
上杉氏は誕生した歴史も浅い(鎌倉中期に成立した)ため一族が少なく、入国当初は国人の力が強かった。
そこで上杉氏は、譜代家臣長尾氏を守護代・郡代として登用して(権限を分かつ事で)、国人とかろうじて対等の勢力となりえたのである。
守護所に近い、頚城郡(守護代三条長尾氏か?)・蒲原郡(山吉氏)・古志郡(古志長尾氏)・魚沼郡(一部は関東管領上杉家領・上田長尾氏)なんかは守護・郡代の権力が徹底していたけど、一番遠い揚北郡はそうではなかったようだ。


116 :人間七七四年:2008/04/15(火) 15:20:20 ID:3EgX0dMJ
太閤検地で調べたら、越後はどこも相給だったのに、
下越地方だけはそうではなく、在地性の強さが全く違ったみたい。

揚北は春日山に屋敷のある奴すらいなかったよね。

117 :本庄顕長ってどぉ?:2008/04/21(月) 16:14:47 ID:Hxzvjp03 ?2BP(1)
>>116さんへ。貴札披見。態々啓候。新情報ありがとう。
>揚北は春日山に屋敷のある奴すらいなかったよね。
→これは、知りませんでした。
>越後はどこも相給だったのに
初歩的質問で情けないけど…「相給」って何ですか? 良ければ教えてください。



118 :人間七七四年:2008/04/21(月) 16:36:14 ID:MWj6174r
一つの村を複数の領主が分割支配するような事

119 :本庄顕長ってどぉ?:2008/04/21(月) 17:11:28 ID:Hxzvjp03 ?2BP(1)
>>118さんへ
重ねてどうもありがとう。
それでは楽しいゴールデンウィークを!! 恐々謹言。四月廿一日。

120 :人間七七四年:2008/04/22(火) 16:48:12 ID:06F2BSDm
>>114
勉強になりました。

121 :人間七七四年:2008/05/08(木) 15:38:30 ID:JggcDJ+5
領内に税が取れる港を有してた奴はいないの?

122 :人間七七四年:2008/05/08(木) 16:13:40 ID:dv1NYI++
色部かな。


123 :人間七七四年:2008/05/27(火) 17:32:25 ID:OeWbcPMJ
>>121
新発田とかは?

124 :人間七七四年:2008/05/29(木) 19:48:26 ID:rJqodcIk
ふう・・・なんと美しい
http://b.pic.to/t489v
お松を笑わせろ
(°д°;)。

125 :人間七七四年:2008/05/29(木) 20:38:53 ID:ybz3qwE+
きさまぁ〜
食事前に〜っ

126 :人間七七四年:2008/06/26(木) 15:07:52 ID:yKP/7RKZ
スレタイの方々の子孫は幕末の頃まで絶家せずに続いてたのかな?

127 :人間七七四年:2008/06/28(土) 00:23:26 ID:EnRgUWZ5
俺実家が色部の領地で通ってた高校の場所が本庄の領地だった
高校の同級生に色部ってやつがいたな
会津に行かずに残ったのもいたのかな


128 :人間七七四年:2008/06/28(土) 12:34:52 ID:+DPwmV3H
>>123
新発田市には港ないぜ…

129 :人間七七四年:2008/07/02(水) 03:29:16 ID:9xMeYvov
こいつらは上杉の家臣なの?

130 :人間七七四年:2008/07/02(水) 15:13:14 ID:aQReYhmH
>>129
江戸時代は家臣化したけど、戦国期は歴とした下位同盟者。

131 :人間七七四年:2008/07/02(水) 19:02:24 ID:7elZ1H7n
家臣という言葉でも、従属程度だとか体制内に
どのように組み入れられているかとか結構幅が
あるよね。
徳川から見た織田と織田から見た徳川の関係も
解釈に幅が出そうだし。なんせ徳川家臣からして
「ウチの殿様は織田に従属しとるんか!」
とかやってたくらいだからね。

132 :人間七七四年:2008/07/04(金) 13:59:02 ID:JFGXVUmn
>>128
三ヶ津(沼垂津・蒲原津・新潟津)は多分新発田領だったかと

133 :人間七七四年:2008/07/04(金) 15:14:43 ID:d3io47vj
自分の領土だったら、奪う必要ないんとちゃうの?

134 :人間七七四年:2008/07/05(土) 17:07:27 ID:IDI80tCx
繁長はもし顕長が先に死ななかったら家督継がせた?

本庄顕長
色部顕長
諱は殆ど使わないとはいえ、近接する領主の長男同士が同じというのも…

135 :人間七七四年:2008/07/07(月) 01:11:52 ID:/zVfOGDP
顕の字は、景勝からの偏諱だし捨てるわけにも・・・。

136 :人間七七四年:2008/07/25(金) 00:40:42 ID:yOPJX69/
>>135
景勝=長尾顕景が前名だな。

137 :人間七七四年:2008/07/28(月) 11:35:21 ID:XFl974ww
■血染めの感状と呼ばれる川中島での奮闘に対する感状
色部勝長・安田長秀・垂水源二郎・本田右近允・中条藤資・松本忠繁・岡田但馬の七名がもらっている。

揚北衆の皆さん、大杉。
やっぱり、謙信も色々と配慮してたんだろうね。

138 :人間七七四年:2008/08/05(火) 00:12:28 ID:YnFJvODd
>>130
景勝の代に、越後の豪族が明確に被官化されていったからね。


>>132
新潟は竹俣慶綱の所領で、新発田重家が横領している(新発田の乱の発端)。
で、竹俣は魚津合戦で死んで、新発田も滅びた後は景勝が直轄で支配したはず。

139 :人間七七四年:2008/08/05(火) 08:51:21 ID:CxDr5dN7
本庄なんかは悪いことばっかやってるけれど、
彼の膨張した基盤のおかげで景勝の政権が強化されているのが面白い。

140 :人間七七四年:2008/08/26(火) 19:09:53 ID:0gOGmQNY
>>138
もし竹俣が生きたままだったら今の新潟の発展は無かったかもしれないのか・・・

141 :人間七七四年:2008/08/26(火) 20:36:12 ID:T1evMqb9
どの道、会津行ちゃうから余り関係無いかな

142 :人間七七四年:2008/08/26(火) 20:39:31 ID:fe4jQLBh
沼垂は立地が悪くて、川の流れに合わせて移転しまくってるし
蒲原は既に活気が無くなってたし
結局、新潟しか発展できなかっただろう

143 :人間七七四年:2008/09/03(水) 07:33:40 ID:45VTQ8yP
関ヶ原の時に越後で上杉家旧臣が蜂起してるけど、揚北方面が主力だったのかな?


144 :人間七七四年:2008/09/03(水) 08:49:25 ID:fbLDlRu4
柿崎や宇佐美の残党も蜂起したというから、ほぼ越後全土じゃないかと。

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