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越相同盟について

1 :人間七七四年:2007/10/11(木) 17:14:30 ID:+aC08PBe
越相同盟は北条と上杉にとってどのようなものだったんでしょう?
この同盟における両者のメリットは?
また結ぶに至った経緯など越相同盟について語ってください。

2 :人間七七四年:2007/10/11(木) 20:48:46 ID:ws2xZBrW
この同盟で謙信は佐竹とかと疎遠になったんでしょ?

3 :人間七七四年:2007/10/11(木) 23:04:38 ID:IbrfXsCK
>>2
以前から疎遠


4 :人間七七四年:2007/10/11(木) 23:18:33 ID:HQj+EhU+
【何故負けた?】上杉景虎【御館の乱】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1154969043/

>>1
ナチスドイツとソ連の同盟と一緒で、何の大義もない野合。

5 :人間七七四年:2007/10/11(木) 23:27:28 ID:ws2xZBrW
これって北条から持ち掛けたんだよね?
結ぶ必要もない同盟をなんで持ち掛けたんだろう

6 :人間七七四年:2007/10/12(金) 02:14:50 ID:ajWNfy9c
前年に里見に大敗北してたのに今度は武田を敵にする事になったので、今までの謙信に対してやってきた事に恐れた北条が謙信に土下座したのがこの同盟。
まず上杉に松山城返還や深谷上杉・忍城成田&騎西城小田・羽生城返還・金山城由良&館林は上杉へ。北条の攻撃で落城寸前の関宿城簗田氏は現状維持。佐野氏を北条は見捨てる。さらに北条から養子という名の人質提出。
さらに里見に安房・上総・下総と千葉氏の帰属確認。
そのかわり居城古河城が孤立しながら守備してた足利義氏を謙信は尊重する。
越相同盟破綻後も北条は人質を取られており上杉とあからさまな敵対行為はしてない。
また越相同盟以前からの佐竹の背信に怒っていた謙信も関宿城救援しない事と結城白河支援・常陸小田攻めしない・羽生城廃城化で武蔵南部への侵攻をしないという意思表示で北条に義理を果して佐竹を困らせた。
アホ里見は千葉氏が里見の下風に立つわけね〜よと拒否した。
松山城がちゃんと返還されたかはわからんが越相同盟破綻後に成田忍城&小田騎西城&由良金山城&足利長尾館林城&佐野唐沢山城が北条に戻る中で深谷上杉が北条へ戻らなかった事から松山城は上杉方になってたのかも知れない。

こんな感じでしょうか?間違いを訂正ヨロシク。

7 :人間七七四年:2007/10/12(金) 02:25:37 ID:/HGUxbiA
確か上杉から北条に送られた人質は柿崎の子かなんかだったよな。
謙信に妻子が無く兄弟もとっくに嫁に出た姉しかいないから
肉親を出せないのは分かるが一族ですらない家臣の子で
氏康の息子と人質交換は驚いたw

8 :人間七七四年:2007/10/12(金) 02:40:05 ID:+nqaYf/A
まぁその条件で締結されたんだからいいんじゃないの

9 :人間七七四年:2007/10/12(金) 02:53:19 ID:6zDkm6Kh
謙信に養子に出された氏康の息子はまあ当然ながら人質の扱いだが、
実子の居ない越後上杉家に養子を出すっつうことはあわよくば謙信死後に家督継承っつう目もありうるわけで、
そういうことまで考えて人質に出したのだとしたらやはり大したものだと思う
御館の乱で景虎方が勝ってたらどうなっただろうか

10 :人間七七四年:2007/10/12(金) 05:08:31 ID:+nqaYf/A
同盟を申し入れたタイミングも絶妙、合戦では謙信には敵わないかもしれないけどさすが氏康だね

11 :人間七七四年:2007/10/12(金) 07:46:02 ID:H2zLKOFC
謙信が怒ってた佐竹の背信行為ってなんなの?

12 :人間七七四年:2007/10/12(金) 09:19:55 ID:ajWNfy9c
そもそも利根川以西の西上野が武田に脅かされ足元が安定しないのに、ワザワザ関宿救援や常陸小田城攻撃をしたのは佐竹や里見との共闘の為である。
もっと言うと佐竹と宇都宮は親戚同士なので小山を討ち服属させたり、たびたびの佐野謀反を鎮定していた。
しかも佐野に至っては佐竹・宇都宮は助命嘆願までしていながら見事にまた佐野は謀反する。
前年に佐竹の顔を立てて長駆常陸小田城攻めして小田を土浦へ逃亡させてやった。
それなのに佐野討伐に佐竹は出陣してこないどころか北の白河結城を攻め佐竹の利益を優先した。
謙信はこの背信行為に怒っていた。
謙信からみれば常陸(小田城)や下総(関宿城)、下野(佐和山城)状勢は旧古河公方足利勢力圏で、関東管領上杉勢力圏は上野・武蔵・相模であり本来の筋目を尊重した場合それほど興味があるものではない。
なのにいつも敵勢力圏深々と遠征する律義さは彼らを救う為に他ならない。
小田原攻めでワガママ言って氏康を討つチャンスを失うし(信玄曰くもう一度総攻撃かけたら落城してたのに…小田原落ちてたら甲府もヤバかったなと発言してる)
国府台では正月早々に酒盛りして奇襲され勝手に敗北する里見・太田のせいで武蔵・下総の権益が失われる始末。
謙信の国益だけを考えれば旧関東管領領である武田から上野西部奪回や北条から武蔵奪回、越中一向衆撃破し越前朝倉救援し上洛して足利将軍の為に三好誅滅するという純粋な戦略目標だけ達成すれば良かった。
この越相同盟は深谷上杉・松山城など武蔵での旧領権益を戦わずして回収でき里見の為の交渉で下総権益を擁護し関宿城簗田氏の危急を救ったが佐竹の権益は放置し勝手にやれといった内容だった。
佐竹・宇都宮・簗田は同盟して戦い、里見は武田と同盟し信玄の小田原侵攻が誘起した。

13 :人間七七四年:2007/10/12(金) 09:22:28 ID:ajWNfy9c
○唐沢山城
×佐和山城

14 :人間七七四年:2007/10/12(金) 10:11:49 ID:vm/Yr7wm
新潟から数千の軍勢率いて山越えて千葉県の周辺まで来て戦して
また同じ道帰って行くってこれ当時としてはものすごいことだと思うんだが
しかも何回もだし部下は大変だったろうに


15 :人間七七四年:2007/10/12(金) 11:32:59 ID:ajWNfy9c
だから上杉と同盟して関ヶ原に向かう家康の追撃してりゃあ良かったのに。
佐竹の曖昧な態度に家康公は卑怯なりと大変ご立腹して島津や上杉よりも佐竹を憎んだという。

16 :人間七七四年:2007/10/12(金) 11:39:52 ID:ajWNfy9c
>>15
誤爆ですスマソ

17 :人間七七四年:2007/10/13(土) 16:23:41 ID:rEtBobdE
もし越甲相三国同盟が締結されてたら天下取れてたな。

信玄「ワシは三河で出て上洛する!」
謙信「拙者は北陸道を西へ進む日本海貿易を独占して越後をさらに豊かにするわい」
氏康「ならはそれがしは里見佐竹を討ち東日本の主となろうぞ」
こうして上野国の利根川以西は武田、以東は謙信。
武蔵国は松山城や忍城や騎西城以北は謙信、川越城や岩槻城以南は氏康。
古河は足利義氏の公方を謙信が補佐して協調する。
簗田・佐竹・里見・宇都宮状勢は北条に干渉しない。
謙信は信玄の近江侵攻を支援するが近江に野心を持たないかわりに本願寺との和睦を仲介する。
信玄「謙信どの、今までいたずらして悪かったのぅ今夜は2人で寝よう」
謙信「富山の薬売りからよい薬が手に入ったので信玄どのの病気に効くと思う」
氏康「謙信どのは塩分取り過ぎと愚考するので梅や酒はお控えくだされ」
こうして三英雄は仲良しになり長生きしました。


18 :人間七七四年:2007/10/13(土) 16:58:14 ID:csO9pD0q
>>6
関宿救援をキョヒったのは謙信じゃなく、佐竹・宇都宮の方でねえんだが?
だっでよ、北条と内通じだ結城が勝手に帰っぢゃうじ、那須も一暴れずるがらでねえの?
>>7
柿崎の子は態度が悪ぐでよ帰されちまったんでねえが?

19 :人間七七四年:2007/10/13(土) 18:38:31 ID:j6pUYTkN
>>17
なんか氏康が割り食ってるような希ガス

20 :人間七七四年:2007/10/13(土) 19:40:49 ID:ZQ4hc2Bm
>9
当初の予定では、景勝が暗殺でもされないかぎり越後国主は景勝に行くだろうが
名はあれど越後に利の薄い関東管領職を北条出身の三郎景虎に渡すことで
越後上杉は関東情勢に振り回されずにすむようになり
(三郎景虎がいる限り北条も上杉領を攻めにくい)、
北条は関東管領職を実質貰う形になって関東支配が楽になる…って
感じだったんじゃないかね?

21 :人間七七四年:2007/10/13(土) 19:51:13 ID:Ep4eAy06
謙信タンはそんなことまったく考えてないよ
彼は生涯不犯だった
つまり魔法使いだったのです
だから自分は不死だと信じていたんです

22 :人間七七四年:2007/10/13(土) 20:59:33 ID:u6U3Te4y
ここもひどい・・・

23 :人間七七四年:2007/10/14(日) 08:54:54 ID:e8h9F+PX
北条はマジで困り果ててたから上野や北武蔵の権益を謙信に譲渡した。
謙信はワザと後継者を決めない事で人質を有効利用し北条抑止効果を狙い南方戦線の安定化を達成させ将軍家救援の上洛戦に集中しようとした。

24 :人間七七四年:2007/10/14(日) 14:43:43 ID:CdlnM86e
うむうむ

25 :人間七七四年:2007/10/15(月) 04:25:43 ID:veavoG6G
実は>21が正しいようなキガス。

26 :人間七七四年:2007/10/15(月) 10:44:19 ID:nOs0UplI
>>21
ワロス
見方によっては細川政元をスケール小さくしたみたいなもんか


27 :人間七七四年:2007/10/18(木) 01:18:50 ID:QzK1DS2H
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        l::||::::     \    /   |l 
        |/ ̄\  (●)     (●)  ||  越相駿三国同盟発動!
      r┤    ト::::: \___/     ||   
     /  \_/ ヽ:::.  \/    ,ノ   
      |   _( ̄ l―---oo-――'"ヽ__  
      |   _)_ノ    ハ // /    |   
     ヽ____)ノ     \//  /     |ヽ、∧

28 :人間七七四年:2007/11/15(木) 05:20:46 ID:Gkf5keFg
同盟交渉の窓口になったのは誰?

29 :人間七七四年:2007/11/17(土) 00:41:03 ID:TTazeYcy
 

30 :人間七七四年:2007/11/17(土) 01:27:10 ID:pKdwMhFh
この同盟ってさ力関係がどう考えても織田徳川同盟と一緒だよな

織田=上杉
徳川=北条

31 :人間七七四年:2007/11/17(土) 01:36:01 ID:Zc5YTzSR
逆だろ。

32 :人間七七四年:2007/11/17(土) 04:46:21 ID:q/yy3grO
尾三同盟ほど力に差が付いていないから、明確な上下関係はないと思うが。

33 :人間七七四年:2007/11/17(土) 06:58:57 ID:ixrsgr8r
同盟の直前、謙信は本庄宗家と出羽大宝寺から人質を取ってるからな
大宝寺は謙信の後援を受け庄内に最大版図を築いた
越中の支配も進んでるし

34 :人間七七四年:2007/11/17(土) 09:34:19 ID:LRhFWQ/A
この同盟は謙信は譲歩してないけど氏康はだいぶ譲歩してるよな。

35 :人間七七四年:2007/11/17(土) 09:50:56 ID:OGq4LEuu
氏康側にとって必要な同盟だった
ということか

36 :人間七七四年:2007/11/17(土) 10:06:17 ID:9Xp1zl7q
謙信は信用できないが、かなり単純だからポーズで平身低頭したってことか?
策士だな、氏康w

37 :人間七七四年:2007/11/17(土) 10:18:24 ID:q/yy3grO
謙信も北条方の公方権力を容認しているから、一方的という訳でもない。
まあ、北条の方が大幅に譲歩しているのは否定のしようがないけどね。

謙信にしてみれば、北条が謙信方になることで関東はめでたしめでたしのつもりだったんだろう。
しかし蓋を開けてみれば、諸将から非難囂々、武田へとすり寄らせる結果になったわけで。
謙信と関東諸将における「関東の安寧」の認識の差が浮き彫りになったのは興味深い。

38 :人間七七四年:2007/11/17(土) 10:29:06 ID:VeocEzuv
里見も佐竹も元々は古河公方のエリアだから関東管領山内上杉氏の領国である上野国とは立場が違うから仕方がない。深谷上杉が謙信へ戻ってきたのは大きい。
武蔵国の松山や岩槻は山内とは違い扇谷上杉家臣太田氏の領国で佐竹の客将なので謙信の立場では直接的には影響を及ぼせない。

39 :人間七七四年:2007/11/17(土) 16:04:28 ID:VI09xDwb
>>37
その辺は氏康なのか窓口になってる氏照・氏規あたりなのかは知らんけど、
薄々わかってた感じはあるな、関東諸大名と謙信の認識の違いってものが。

北条からすれば上杉と関東諸大名が切れてくれれば十分なわけだし。

40 : ◆HWcl3tDt8E :2007/12/16(日) 22:40:08 ID:jhvA1YJ5
【早雲】後北条家総合スレッド 其の二【氏直】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1187642750/l50
から越相同盟ネタを持ってきました。
たいした内容ではないですが自分で調べたのをネットの他の場所に挙げた時に
2chのパクりだと言われるのは嫌なのでトリップつけます。


駿越交渉
謙信は永禄十年正月に義重宛てに南甲有手切と伝えており、
この時点で三国同盟の裏側についてなんらかの情報を得ていたと考えられます。
同年十二月にこの三国同盟のほころびから今川と上杉の交渉がはじまります。(長谷川弘道「永禄末期における駿・越交渉について」)
翌年四月に今川側では三浦氏満、朝比奈泰朝といった重臣が交渉を担当するようになって本格化し、
氏真の要請があれば信濃に出兵するなどの条件で密約ができます。
信玄の裏切りを恐れてできた密約ですが、信玄はこれを察知して逆に今川との断交の口実にしたようです。
永禄十二年年正月七日氏照の越府宛て書状に
「今回の駿甲手切れ、年来今川が謙信と通じていたのは信玄滅亡の企て歴然で信越国境の雪が深い間に駿河に仕置きするべきであり
この一理によって干戈を動かしたという由、然則、当方御一味」ということで、
同日の直江宛書状にも同内容のことがあり、また同月十六年の由良→河田宛書状にも同内容のことがあります。
このように、越相同盟は駿越交渉にのっかる形ではじまったもので、以降の北条の一連の信濃出兵要求もこれに基づくものかもしれません。
なお、この氏照書状で雪が深いとありますが、『正法寺年譜住山記』『信長公記』等によれば
永禄十一年冬から十二年春はまれに見る豪雪で、それゆえ謙信が身動きがとれなかったようです。
さらに上越国境では明治時代に数年かけて作った道路が雪解けにより半年で通行不可能になったくらいで、春になっても中々通ることはできなかったでしょう。
ですが、そんなことにかかわらず謙信は今川・北条との密約を果たす気は全く無かったようです。


41 : ◆HWcl3tDt8E :2007/12/16(日) 22:41:53 ID:jhvA1YJ5
甲越和与
信玄は永禄十一年本庄を叛かせて芦名を味方につけ自身も北信濃に侵攻しますが、謙信はなんとかしのぎます。
正月二十一日の芦名方の小田切への書状で越後へ乱入するとともに、北条と相談して倉内を攻めるとあります。
信玄の北信攻め中に北条が動いた形跡はありませんが、気になるのが同年十二月二十四日の本庄→北条宛て文書。
本庄は同月五日の沼田への御出馬を祝い、協力を求めています。でもこれは信玄の駿河攻めと同時期。
どうも信玄は北条に沼田を攻めようと言って、軍を集め、北条が北上したのを見計らって駿河に侵攻した?検討の余地有り。
本題、信玄は本庄の乱が鎮圧される以前に信長を通じて義昭に甲越和睦の御内書を届けさせます。(丸山和洋「甲越和与の発掘と越相同盟」
謙信のもとには二月に、信玄には三月に届いたようです。五月に交渉本格化、七月下旬に成立。
北条はほぼ毎度のように信濃出兵を求めており、謙信も応じるそぶりを見せますが、七月二十九日鮎川盛長宛書状で
信州を攻めようと準備していたが向こうが子細申してきたので延長したとあります。
八月十八日氏政→千葉書状で輝虎は六日に越府出張、五日以内に沼田に着陣を告げてきたと有り、
その他にも複数の書状で謙信が一度沼田に入ったことがわかります。しかしこれは今後も数度行われる戦うふり越山で、信玄と戦う気はなかったようです。
同月、足利義昭より甲越和与がまとまったことは然る可きと。
謙信がこの頃沼田から引き上げて越中へ『百日』の遠征を行うと、ほぼ同時期に信玄は関東に侵入。
まるで示し合わせたかのようですね。
この間、信玄は武田神社文書にある書状で沼田、厩橋撃破を伝えていますが、実際のところは戦いはなかったでしょう。
十一月に越中から帰国、二十日沼田に入る。二度目の戦うふり越山。佐竹も参加する予定で太田父子に「急度催促簡要」と伝える。
十二月八日氏康→由良書状で倉内で越年するよう要請していますが、
同月十日信玄→信長書状では謙信が沼田に出張したが義昭、信長をたてて家臣の反対を押し切り防備を固めなかったとしています。
もちろん謙信は信玄が確信していたように信玄とは戦わず、翌年正月に佐野に出兵、北条から抗議されます。
同年三月頃、北条は甲越和与を察知したらしく、これを破棄するかしないかの話が出始めます。
謙信は八月に甲越和与を破棄しますが、結局信玄と本気で戦うことはありませんでした。

42 : ◆HWcl3tDt8E :2007/12/16(日) 22:46:34 ID:jhvA1YJ5
関宿と関東からの越山要請
関東では永禄十年までに里見、広田を除くほとんどの勢力が没落するか謙信を裏切って関東経略はほぼ破綻します。
先月の佐竹、謙信の断交に次いで、簗田は永禄十年四月に北条、義氏と誓詞を交わします。
この条件に「相馬がなんと言っても氏政は簗田に協力する」とあります。
相馬氏は先年に相馬整胤が家臣の謀反で死亡し、高井治胤が後を継いで謙信にも協力していました。
簗田はこの『相馬一跡』を自分が相続することを狙っており、
この辺りの行動は全て相馬領併合の野望に基づくものだったようです。
相馬治胤もこれを察知して簗田の策謀を阻むため北条と組んで、守谷城を義氏に差し出すという手をとったようです。
(ただし、この辺は自分でちゃんと調べていないのであまりわからないのですが…。)
このように簗田側とすれば、相馬領土併合に失敗したので北条に不満があったでしょう。
これ後も続いたようで、越相同盟下で北条、上杉ともに相馬領領有を認めなかったことに不満を感じたらしく、
故に元亀元年には信玄は相馬領併合を認めることで簗田を味方につけます。
対して、北条はそもそも関宿を狙っており、簗田の要求を聞く意味合いもあまり感じていなかったのでしょう。
永禄十一年八月〜九月頃に北条は野田氏の栗橋城を接収、山王山、不動山に砦を作って関宿を包囲し、第二次関宿合戦がはじまります。
謙信から「手を返された」と見られていた佐竹ですが、北条の関宿接収を恐れてか謙信に越山を要請します。
十二月五日、北義斯が「関宿凶事眼前候」を伝えますが、謙信は本庄と新雪で行けないという風に言ったのでしょう。
同月二十四日、義重は信玄の駿河攻めで小田原が取り乱しているので人数が足りなくても越山してくれと食い下がっています。
さらに永禄十二年二月五日多賀谷政経→河田長親書状「関宿之地大切ニ候上、御急束御越山」
同月十一日太田道誉→山吉豊守書状で「御越山ニ相極候…関宿之儀、極々相詰候間、例式ニ思食間敷候」
同日の別の書状で「南甲取合」っているので「関宿之堅固中」に「越山」
三月七日白井長尾憲景→越府書状「関宿之儀…到無越山者、可為自落、御越山之外不可有」等。
このように、多くの越山要請は北条と戦えというより(戦うことにはなりますが)関宿救援を求めたものです。
(ただし、太田は後に関宿と越山はわけていますが)
ここから謙信は北条に関宿攻めをやめるよう要求し、それが和平条件になったと考えられます。

43 :人間七七四年:2007/12/17(月) 00:21:19 ID:354Cty9d
>>40-42
臼井城スレで語られていた内容の詳細だね
越相同盟までの流れが分かりやすい
乙です

44 :人間七七四年:2007/12/17(月) 00:46:37 ID:kp7Q16+8
>>40-42

実に興味深い内容を簡潔に読ませてくれてありがとう。

45 : ◆HWcl3tDt8E :2007/12/19(水) 18:27:57 ID:3v7Krz+P
レスありがとうございます。

>(ただし、この辺は自分でちゃんと調べていないのであまりわからないのですが…。)
と書いた簗田の件は大体確認できました。
簗田は相馬整胤の死の前から相馬領攻略を狙っており、ともに謙信方であった永禄五年正月に
相馬方だったと思われる目吹城を攻略、さらに四月に守谷城(相馬之地)の攻略をはかっています。
簗田が先手をうって北条に帰参した後、相馬治胤は義氏に頼んで北条への従属をとりなして貰い、
その際に義氏に守谷城を差し出すことを申し出ました。義氏は古河への復帰に熱心だったようで、
それにつながる守谷城差出を喜び相馬治胤を擁護するような行動をとります。
一方で簗田と北条氏政の間では義氏が守谷から古河に移った後で守谷城と領土は簗田のものになるという密約ができていたようです。
しかし、結局義氏の守谷への移動は行われませんでした。
簗田の上杉方はの復帰は永禄十一年八月で、北条が関宿に仕掛けた時期と前後するかもしれません。

46 : ◆HWcl3tDt8E :2007/12/21(金) 23:53:20 ID:Fkm9TRXh
越相同盟後の「北条高広主導の甲相越三国同盟」説についてのレスです。

第二次甲越和与についてもちゃんと調べようと思っていたんですが、
当方、信長・義昭には疎いのでそう簡単にはまとめられそうになく、
とりあえずは平山優『武田信玄(吉川弘文館)』や
谷口克広『戦争の日本史13信長の天下布武への道(吉川弘文館)』等
手持ちの信玄、信長本から書いてみます。
確か謙信から信玄に対北条同盟を持ちかけた史料もあったように記憶していたのですが確認できませんでした。
『対北条』というのは甲越和与の話から自分が勝手にそう思っただけだったのかもしれません。
以下、明記していないものについては何所収か把握していません。
元亀三年正月の信玄→信長の祐筆武井夕庵宛て書状で謙信が甲越和与を望んでいるが承諾できないとしているそうです。
同年七月三十日、信長→謙信書状で謙信・信玄の和をすすめているそうです。
十月五日信長→信玄書状で甲越和与の調停中なので越後攻めはやめて欲しいと考えていたところ同意を得て喜ばしい、との書状。
しかし十月三日には信玄は西上をはじめており、平山優の本では信玄の出陣準備を信長は越後攻めのものと考えてたようだとしています。
『「織田信長文書の研究」補遺百三十号』、
『染谷光廣「武田信玄の西上作戦小考-新史料の信長と信玄の文書」日本歴史360号』等で扱われているとのこと。
十一月二十日信長→謙信書状で出し抜かれた信長はこの信玄の動きに激怒し、
義昭とともに甲越和与のため義昭のため努力していたのに
信玄の所行は前代未聞の無道さで、未来永劫信玄と結ぶことはないとしています。
これは歴代古案所収、上越市史別編にあり。

これらの限りでは第二次甲越和与については義昭信玄信長関係のなかで扱われているものばかりで
北条高広からのものは新視点かもしれません。

47 :人間七七四年:2008/01/28(月) 19:47:36 ID:y8TVEvWO
保守

48 :越相同盟ってどぉ? :2008/02/08(金) 13:02:07 ID:8yZt0OBb ?2BP(1)
◆HWcl3tDt8Eさんへ
いつも貴重なご意見のどうもありがとう。
大変、興味深く読ませて戴きました。
カエサルの『ガリア戦記』みたいに、
簡素な文体ながらも要所は押さえてある、
素晴らしい文章ですね。

さて本題。小生は只今、貴殿の情報を参考にしつつ「三増峠の戦い」の調査中なのですが…
1.
>>40
>「謙信は永禄十年正月に義重宛てに南甲有手切と伝えており、
この時点で三国同盟の裏側についてなんらかの情報を得ていたと考えられます。」

について、私のわかる範囲で書きます。

これもまた「北条高広」がからんでいるらしいです。
というのは、同じ永禄十年(1567)の四月六日付の謙信→沼田城将松本景繁らあて書状「歴代古案」によると…
「高広が妻子を捨てて後北条・武田に寝返ったので、討伐せよ!!」と命じています。

これはあくまでも私見ですが…
三国同盟崩壊の序曲は、永禄九年秋の「義信幽閉」と「勝頼結婚」から、つまり信玄の外交政策が「親今川→親織田」に変わった時だと思います。
高広は、永禄九年九月二十九日の信玄による箕輪城陥落あたりから、後北条・武田に近づいていて、「外交の転換」を知っていたのではないでしょうか?

他にもこの時期「謙信→後北条」に寝返った関東諸将は数あれど…、
信玄・後北条に近づきつつ、それを謙信にご注進できる人物は、彼しかいないのではないか?

2.
>>40の「越相同盟は駿越交渉にのっかる形」について

これは同意します。確か「氏真・謙信」間の対信玄同盟の交渉をしていた氏真の使者「善徳寺」なる人物が、
越相同盟の交渉が始まった永禄十二年正月に、後北条の使者「天用院」に付き従って春日山に赴いているからです。

3.
1つ質問があるのですが…
>>41の「北条が沼田へ行った」との情報元なのですが…
これは「永禄十一年十二月二十四日の本庄→北条氏照宛て文書。」のことなのでしょうか?
これについて何か知っていたら、何でもいいので是非、教えてください。

49 :人間七七四年:2008/02/08(金) 19:02:32 ID:1HQJSaFX
>>48
41の丸島氏(←丸山じゃないぞ)の論文は確認してないが、優しい俺様が上越市史から引用

>史料番号630 (永禄十一年)極月廿四日由井源三宛平繁長書状
>(前略)今月五日向沼田之地可被■(※取カ)御出馬之由、大慶奉存候、(中略)
>当国之人数払而爰元在陣仕候間、縦令上田之衆(※庄カ)迄被遣御馬候共、
>後詰之沙汰不可有之候、(後略)

とあるので、多分情報元はこれだと思います

50 :越相同盟ってどぉ?ってどぉ?:2008/02/17(日) 16:22:55 ID:6HtgqHJX ?2BP(1)
>>49さんへ
わざわざ、原文でレスを頂き、どうもありがとう!!
漢字入力は大変だったでしょうにね。
永禄十一年十月から十二月にかけての後北条勢力の動きを、可能な限り資料で探ったのですが…
氏康・氏政・氏照・氏邦・氏繁は、どうやら、行ってないみたいですね。
(綱成は確認できなかった)

その2行目を意訳すると「今月五日に沼田の向けて出馬した『と聞きました。』このうえなくめでたい。

この「由」つまり、『と聞きました。』がポイントでしょうね。本庄はだまされたのかなぁ。





51 :人間七七四年:2008/03/10(月) 07:55:10 ID:FvxH7bh5
上杉家は案外柔軟だな。
小田原北条、甲斐武田とかつての宿敵とホイホイ同盟してるし。

52 :人間七七四年:2008/03/18(火) 07:51:20 ID:oeazUXwe
アッー!

53 :人間七七四年:2008/03/25(火) 12:11:39 ID:35TeItez
>>51
そんなこといったら、
長尾家と上杉家がそもそも宿敵。


54 :人間七七四年:2008/05/26(月) 09:22:53 ID:w9ga6aHd
この同盟で佐竹や里見、大田資正とか激怒したろうな。

55 :人間七七四年:2008/05/26(月) 10:25:41 ID:FNMnP7hm
北条側のほうが不利だったけど
結果的には上杉は関東の諸将と関係悪化しちゃうし、
お家騒動も起きてしまうで、得だったのかね。
謙信が景虎に関東管領を相続させて北条に帰してきたら
当主との兼ね合いで北条の頭痛の種になったかもしれんが。


56 :人間七七四年:2008/05/26(月) 23:07:14 ID:AstcgFeo
北条がすごいと言うより
この時期の由良足利長尾兄弟が
スゲー腹黒の曲者だよな。
謙信から伊勢崎や館林を恩賞でもらいながら下総臼井城攻略の総大将に足利長尾が命じられて失敗した途端に謙信を裏切る始末。
その後は謙信が何度も新田〜足利領を蹂躙してるが太田金山城の防御力の高さは異常。
佐野なんて降伏して目付けを入れられたり人質を取られてばっかりなのに。


57 :人間七七四年:2008/05/26(月) 23:25:46 ID:AstcgFeo
北条は三国同盟を無視して今川氏真を攻めた信玄の猛威を受けて厄介な戦いが駿河で始まり敵対。
上野国では由良長尾の上杉からの独立を認めて支援を約束してるようなもんだし
武田が飯山や沼田を落城させて本庄と呼応し越後に雪崩れ込む→上杉が屈服和睦→武田上杉同盟で北条フルボッコを避けたかったんではなかろうか。
北条は信玄が越後駿河を併合しそうな勢いに恐怖を覚え軍事バランスが崩壊しないように上杉と同盟しようとした。
実際は越中や信濃国境地帯が越後勢全員集合し固められ総動員体制になり本庄討伐を開始。
信玄も越後防衛力がハンパなく上がり、これ以上の侵攻が不可能な事を悟り駿河に矛先を変えたんだが。
また謙信は最大の危機を迎え良く学んだのか、これ以後はやたら外交戦略軍事の面で知恵を付けたようにも思える。
北条・徳川・織田と対武田同盟しながら武田とは極力戦わない戦略を取り上野の国境紛争も利根川を境に沈静化していく。

58 :人間七七四年:2008/05/26(月) 23:36:26 ID:7wD0ZlZl
>>54
出羽に移った頃の義重に聞いてみたいな
今は越相同盟をどう思いますか?って
おそらく複雑な表情になると思う

関宿城が落ちる寸前だったあの時分、もし越相同盟が結ばれなければ
北条による北関東への侵攻が3年早く開始されていた可能性が高い

越相同盟によって助かった義重ら北関東の諸将らは
北条の足を引っ張りまくった訳だし
その奮戦は越後上杉氏にとっても大きかった

59 :人間七七四年:2008/05/27(火) 02:09:03 ID:joBS6hfc
越相同盟がなければ
確実に関宿→結城・小山死亡→佐竹・宇都宮死亡フラグが速攻で立ちまくり
秀吉の小田原攻めタイムアップの逃げができなくなるぞw


60 :人間七七四年:2008/05/27(火) 02:41:44 ID:joBS6hfc
>>57
その後の武田と上杉の関係も安定し始めてくるしね。
なぜなら信玄と婚姻関係の本願寺と謙信の間はずっと安定してるから。
謙信は1555年11月13日に自ら本願寺に訪問して一向宗対策で証如に太刀代などを献上して友好関係を作っているからね。

また信濃から追い出された村上義清は景勝に続く越後ナンバー2の地位と糸魚川の地を領土として貰って越後での生活の基盤はできていたし
信玄が死ぬ以前に義清が死亡しており川中島にこだわる必要もなくなっている。
さらに義清の子の国清は朝倉義景の娘を貰ってるし上杉と朝倉は仲がよいから武田が朝倉を助ける分には邪魔はしない。



61 :人間七七四年:2008/05/27(火) 03:03:32 ID:kbi8vhFl
越相同盟が無ければ上杉はこれまで通り北条を攻めるから、
北条は武田、上杉、関東の衆で包囲されてかなりやばくなるんじゃないか?
つーかそうなる可能性があるから越相同盟したんじゃねーの?

62 :人間七七四年:2008/05/27(火) 03:35:54 ID:joBS6hfc
当時の謙信は赤城山を大きく迂回し桐生氏の領地から敵陣の由良氏の弟の足利を経由して関宿救援に向かうという状況で
(厩橋の北条が上杉から離反したから。その代わり桐生氏の養子の実家は佐野氏で、渡良瀬・桐生川の水利を巡り由良・桐生は対立し始めていた)
そのため上杉に関宿城救援の妙手がなかった。
だから大規模に上杉が北条と戦う可能性は低い。

63 :人間七七四年:2008/05/27(火) 13:50:19 ID:G2n8qCyG
クソ由良足利兄弟も謙信死後に結局は北条に拉致られて金山城をムリヤリ退去させられ桐生に移転の上に家臣化させられるんだよな。
謙信と氏康の間で利益を追求して先々の事が予想できず謙信死後に困難に直面する愚劣ぶりは常陸の佐竹と下野の宇都宮と同レベル。
謙信と協力してれば良かったものを愚かな…

64 :人間七七四年:2008/05/27(火) 22:48:28 ID:tyeMtxQ2
突っ込みどころの多いレスだな…氏康?

65 :人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/08(日) 15:59:14 ID:AUu2m2Ry
越相同盟はどちらにもいちおう利はあるでしょう。

まず北条は公方義氏と北条家の地位を関東管領から承認されたわけだし
分国の経営がやりやすくなる、武田への上杉の助力も得られる(これが
ダメで結局同盟は破棄されたけど)。
上杉にしても関東、越後国内(頻繁な謀反)、越中と三方面の戦線から
一つ、それも三国峠を越える一番負担が大きいものがなくなるのだから
これに勝る利はない。

ただ氏康の「対武田の同盟者としての上杉への期待」と
謙信の「関東の安定」とがかみ合わなかったんだろうな。
同盟中の北条は駿河・伊豆はもちろん関東でも武田に押されている。
これの助力を氏康は謙信に期待したんだろうけど。

66 :人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/08(日) 17:21:44 ID:d8TCT5Pn
上杉も関東勢が武田に付いてるから
関東勢とはあまり敵対したくなくて
武田に真っ向から攻撃できなかったんだろ?

67 :人間七七四年:2008/06/21(土) 16:13:11 ID:QBGjYSVE
>>28
北条側:石巻天用院(使僧)

68 :人間七七四年:2008/06/21(土) 16:35:05 ID:N/S4wleA
>>65
関東では押されてはいなかったと思う。
武田里見連合の伊豆侵攻も撃退してるし
その後も伊豆での戦いは全て退けた。
三増峠も最後以外は計算通りじゃない?
武蔵北西あたりで降伏した奴がいるが
それはこの時の戦術を考えれば仕方ない。

69 :人間七七四年:2008/06/22(日) 01:30:18 ID:Z0FIIQl+
>>67
上戸だったと伝わってるんだっけね。
北条は使者の選別がうまい。

70 :人間七七四年:2008/06/22(日) 09:15:07 ID:/21BosXo
>>67
上杉側:由良成繁

>>69
謙信と一緒に飲んだりしたんだろうかw

71 :人間七七四年:2008/06/22(日) 10:08:31 ID:UuBG441x
>>70
進藤家清から謙信に出した手紙では50代の「いかにも仁なる御出家」で「上戸」とか。
わざわざ謙信に使者が酒は呑める人だと報告するのが面白いねw

72 :人間七七四年:2008/06/22(日) 13:34:04 ID:Cc8cnH+4
>>68
関東遠征では
小田原焼かれて上杉との同盟関係が不振な事も浮き彫りになってるし
政略面では武田の思い通りじゃない?

73 :人間七七四年:2008/06/22(日) 14:42:42 ID:UuBG441x
トラーとカツ

三郎景虎にゃーご
喜平次景勝ぅ
死語に二人がかちあった
やめないか仲間割れ
景虎だって跡継ぎさ
景勝も跡継ぎさ
トラーとカツ
仲良く家継ぎな

(謙信が死語に歌ったとされる歌)

74 :人間七七四年:2008/06/22(日) 19:33:40 ID:t6cXnI/R
謙信は関東管領職を名実ともに次代に受け継いでいくものと考えていたのだろうか。
その場合、北条家との将来の展望をどう思い描いていたのだろう。
三郎の立場は微妙。
同盟結時の暗黙の了解だった山内家継承、管領継承のために手元に置いた説もあれば、
上野の領有権と分ち難く結びついた存在であったため、
人質の意味があって返さなかったという説もある。
少なくとも晩年の景勝の地位補強を見ると越後国主としての実権者という意味での跡継ぎは、
内心景勝と決めていたように思える。


75 :人間七七四年:2008/06/22(日) 21:56:19 ID:JS3mARjj
>>68
小田原を焼かれるのは元より覚悟の上でしょう
野戦できる兵力はあったんだからさ。

謙信との同盟が機能しなかった事とこの戦は無関係。
三増峠での氏政の遅延までは完全に北条の作戦通り。
氏政の遅延と信玄の作戦は関係ないからね。

76 :人間七七四年:2008/06/23(月) 00:37:49 ID:nJn8lYRX
>>75
野戦できる兵力本当にあったのかな。
信玄書状によれば氏照達は6、7千ほど。
里見とか駿河とかにも兵力を割いてるし小田原にいた氏康たちに二万近い兵はあったのかな。
あと信玄はこの遠征の前に甲越和与を結んで謙信を抑えてから進撃してるから
謙信が動かないことは想定の範囲内だったのでは。
小田原焼いた事はいい宣伝にもなったし。

77 :人間七七四年:2008/06/23(月) 13:36:17 ID:8CY6zfBa
甲越和与ってどんな内容だったの?
オレの持ってる本に乗ってないもんで教えてくだちゃい。

78 :人間七七四年:2008/06/23(月) 14:09:12 ID:7AolvcgI
同盟じゃなくて和与って言葉が面白いね
龍虎抱擁みたいでw

79 :人間七七四年:2008/06/23(月) 16:11:14 ID:NSVpEEVg
房甲同盟!房甲同盟!!

80 :人間七七四年:2008/06/23(月) 18:29:58 ID:xr3cwi6l
>>78
所詮「与えられた和」だから
お互いに交流が無く、冷たい感じ

越相同盟だと北条は謙信に江州酒やみかん
謙信は北条に鰊などを贈ってるけど

謙信が信玄に塩を送ったのは甲越和与の時だったのかな?

81 :人間七七四年:2008/06/23(月) 18:44:28 ID:zI5CnfkB
つまり北条と上杉はラブラブだったと

82 :人間七七四年:2008/06/23(月) 20:15:35 ID:A59lhFQg
>>79
ぼっこうぼっこう!

83 :人間七七四年:2008/06/23(月) 21:50:25 ID:GyVtt9Qj
そういや氏康は謙信のフンドシが欲しいって言ってたらしいね

84 :人間七七四年:2008/06/24(火) 06:04:50 ID:mmcA1HDt
>>80
塩は義元が生きてる時だったはず。

85 :人間七七四年:2008/06/24(火) 07:22:27 ID:jQ5KISYd
>>83
肌身ってふんどしかよw
謙信女性説だとあの逸話は氏康が変態になるな。
「謙信たんの下着でお守りを作ってわしのムスコに使わせたい」とか言ったというw

86 :人間七七四年:2008/06/24(火) 14:20:22 ID:TyG0357j
どこかの安東愛季スレを思い出した

87 :人間七七四年:2008/06/25(水) 01:19:01 ID:BWCl2cqo
>>85
ふむ、その発想は俺には出来ないものだ

88 :人間七七四年:2008/06/26(木) 05:54:36 ID:smNPK8P0
氏政「謙信たんに汁を二度かけたい」
氏康「一度で堪能できないのか」

勝頼「謙信たんハァハァ」
信玄「謙信は頼めば嫌とは言わない。わしは大人げなく、それが出来なかった」

謙信「おまえら、きもいんですが」

89 :人間七七四年:2008/06/26(木) 10:59:31 ID:L8e7nbkC
>>86
ttp://ansaikuropedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%9D%B1%E6%84%9B%E5%AD%A3
> 安東 愛季(あんどう あいき・ちかき、1539年(天文8年) - 1587年10月2日(天正15年9月1日))は戦国時代・羽後の
> 大名。おんにゃのこ。秋田美人。着物萌え。イッペンシンデミル?。能登かわいいよ能登。戦国時代に羽後に一大勢力を
> 築いた大名として一般に知られている安東愛季(あんどう ちかすえ)は愛季タソが操縦するMS・ANDO-TIKASUEである。
>
> 稀代のエロカワイさと毒舌は海内に響き、その姿を一目見ようとするものは現代でも絶えない。午前0時に
> インターネットにアクセスすれば愛季タソの肖像画が見られるという都市伝説が存在する。本人も自分の愛らしさを
> 自覚しており、その妖艶をもって権謀術策を駆使し、安東家の威光を復活させた小悪魔っ娘である。

きめえw

90 :人間七七四年:2008/07/01(火) 00:48:08 ID:f8/gkjOc
>>89
ようこそ、愛季たんの世界へ。
女の子な安東愛季と共に苦難を乗り越えていくスレ2籠
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1185649756/


氏真「越相駿三国同盟!越相駿三国同盟!」

91 :関連スレ:2008/07/15(火) 01:23:11 ID:PSA0xCiL
【景勝】御館の乱を語る【景虎】
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1212960019/


92 :人間七七四年:2008/08/18(月) 11:51:39 ID:2Oc4zd6X
古河公方と関東管領ってどっちが上位なんだろ?

93 :人間七七四年:2008/08/18(月) 13:56:39 ID:DOKRDaBs
公方の補佐役が関東管領だよ

94 :人間七七四年:2008/08/18(月) 16:57:14 ID:lnIlshBU
公方を担ぐ無官の北条と、
関東管領の上杉

この二人の同盟関係に上下はないね。

95 :人間七七四年:2008/08/18(月) 18:21:29 ID:hl6JcJYm
アホか。
越相同盟で
関東管領上杉を認めた氏康は名義上では
謙信の臣下という形になってんだぞ。

96 :人間七七四年:2008/08/18(月) 19:27:53 ID:lnIlshBU
臣下じゃないだろ。
関東管領は主君じゃなくて盟主の立場。
しかも北条は公方の親族。
越後上杉と上下はない。
そうなるよう謙信が心をくだいて配慮している。

97 :人間七七四年:2008/08/18(月) 20:25:15 ID:V+xXjrZY
>>96
配慮ってどんな?

98 :人間七七四年:2008/08/18(月) 20:57:45 ID:lnIlshBU
三郎たんとかね。

99 :人間七七四年:2008/08/18(月) 21:40:01 ID:V+xXjrZY
北条景虎っていう氏康の息子を人質に謙信はもらったが、謙信は部下の息子を北条にやっただけだからまったく釣り合い取れてないな。
やっぱり北条は屈服したも同然。

100 :人間七七四年:2008/08/18(月) 21:51:17 ID:sB+bO83F
北条にとっては人質用の息子なんでは?

101 :人間七七四年:2008/08/18(月) 21:51:30 ID:lnIlshBU
だから三郎たんは養子にして釣り合いを取っている。
上杉は北条の顔を立てて同盟の締結を固めているわけですよ。
伊勢呼ばわりするのも止めているしね。
北条には上杉に屈服する理由がない。

102 :人間七七四年:2008/08/18(月) 22:47:48 ID:HjAETl+2
北条の都合で同盟を結んだわけだし大幅に譲歩するのは仕方なし
屈服とかいう話ではない

103 :人間七七四年:2008/08/19(火) 00:20:30 ID:wQApN8Uj
譲歩であって、屈服とか臣化じゃないね。
明らかに上杉が優位だが。

104 :人間七七四年:2008/08/19(火) 01:11:09 ID:gSFwp0Vg
名目上は上杉が優位だが、関東の実利は北条が確保でおk?

105 :人間七七四年:2008/08/19(火) 01:57:11 ID:Vprr5iLP
名目は同等、実質上杉優位

106 :人間七七四年:2008/08/19(火) 03:51:13 ID:22DOnCsY
謙信は痛いトコなし
北条の一方的譲歩。


107 :人間七七四年:2008/08/19(火) 08:44:46 ID:ZPLXIcih
氏康はいざとなるとスパッと目先の利益を斬り捨てて方針を転換できるからな。

108 :人間七七四年:2008/08/19(火) 09:38:03 ID:2kABUciy
北条側も越相同盟以降謙信を関東管領山内上杉と認めて
山内殿と呼ぶようになってたような。

109 :越相同盟ってどお?:2008/08/27(水) 10:20:10 ID:5+shKJrK
久しぶりです。
>>77さんへ。本じゃなくて本に付いてる付録の月報だよ。
その月報のタイトルは…
丸山和洋「甲越和与の発掘と越相同盟」
本のタイトルは『戦国遺文 武田氏編』第6巻。御値段¥17,850。

買いたくないなら…
あの桐野作人氏がHPで解説しています。↓ココね!!
http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-72.html

もしくは板倉丈浩氏が年表を作ってるよ。↓ココ。
http://d.hatena.ne.jp/sanraku2/mobile?date=20070120

あと◆HWcl3tDt8Eさんが簡潔にまとめてある。>>41を読んでね。

◆HWcl3tDt8Eさんへ。
もし、解説可能なら…、私も大いに興味あるので…
>>77さんへ解説、宜敷御願い申し上げます。
恐々謹言

110 :人間七七四年:2008/08/27(水) 21:17:26 ID:uc/XDhDR
上野なんて寝返ったばかりの奴らだけだからな。
金山の由良しかり厩橋の北条しかり。
上杉との同盟とひきかえなら大した譲歩じゃない。
むしろ利根川以南の成田氏長を配下にでき、義氏を認めさせたんだから美味しい話でしょう。

111 :人間七七四年:2008/08/27(水) 21:36:31 ID:XcNX80Rw
北条としたら上野から得られる利益は小さかったろうね。
北条や由良の利権はそのまま認めてた訳だし
西部は武田の支配下にある状態だし。

ただ、謙信側から見ればさらに美味しい話だったろう。
崩壊寸前だった関東経営がほぼ無条件で再建できるんだからね。
あれで佐竹や里見が愚行を起こさずにいればなぁ。
あと一回でも謙信が信濃を牽制でもすれば東国は上杉のものだったかも。

112 :人間七七四年:2008/08/28(木) 03:24:09 ID:O/sOkD9k
北条の大幅譲歩が氏政にはそうとう不満だったみたいだしな。

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