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テ ン プ ル 騎 士 団   ス レ ッ ド

1 :白カラス黒ヒツジ:2007/05/11(金) 09:24:03 ID:NL4edQsa0



      、、、、、、また、復活しました。


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457 ::2008/05/04(日) 19:43:33 ID:nIorFx9J0
ロマスとナイトによればフリーメーソンリーは紀元前7600年の大洪水にまでさかのぼる知識を伝承
している。これは、巨大な天体の衝突によるもので、それは、「エノク書」にあるように「7
つの燃える山」となって落下した。

 紀元前15390年ごろ、ファラオ・セクエンエラはヒクソスのファラオであるアポピの雇った3人の男に殺
害された。アポピは、ファラオを神に変容させる儀式を聞き出そうとしたのだ。だが、彼らは失
敗し、新たなファラオであるセクエンエラの息子が、叛乱を率いてヒクソスをエジプトから追放した。紀元
前1522年のことだ。彼の父を殺したのは恐らくへブル人だ。だが6世紀後、この話は、
換骨奪胎され、殺されたのはソロモン神殿をつくったテュロスの職人ヒラム・アビフということになった。
ソロモンは、フェニキア人の妻の誰かによってヤハウェ信仰から迷い、近世の女神の一人である、アス
タルテにささげものをした。彼の神殿はアスタルテの神殿に倣って造られた.

紀元前587年、ユダヤ人はネプカドネザル王によってバビロンに捕囚され、50年後に
ようやく帰国を許された。囚人の間、彼らは、メシアすなわち「油注がれたる王」を夢見てい
た。それは彼らを勝利に導き、地上に神の大国を樹立するものだ。彼らは、神殿を再建し
たゼルバベルがメシアを宣言することを望んでいたが、彼にはそのような野心はなかった。

 ばれ区さんだー大王が彼らの主人になると、多くのものは彼らはメシアだとのぞんだ。だが、
セレウコス朝-―アレクサンダー大王の後継者――の王の一人が神殿にゼウス像を立てると、それが原因
でユダス・マカバイオスの乱が起こった。以後、彼の家系が世襲の祭司となった。


458 ::2008/05/04(日) 19:44:49 ID:nIorFx9J0
これに嫌気がさした保守派のエッセネ派はクムランの荒野に移住し、そこで禁欲的な生活
を送った。彼らの指導者は、(義の教師)と呼ばれ、奇跡を起こし、メシアを自称し、処刑さ
れた。イエスの到来より一世紀ほど前のことだ。この教師とイエスの類似ははなはだしく、研究
かG・R・Sミードは「イエスは紀元前100年に生きていたのか?」という本を書いた。

イエス自身は、4人の兄弟と2人もしくは、それ以上の姉妹の長男で、父親のヨセフはファリ
サイ派だった。ファリサイ派というのはユダヤ教の一派で、律法の厳守を主張する。イエスは
この宗教を不毛と感じて背を向けた。彼の徒兄弟である洗礼者ヨハネは、ゼガリアという
祭司の息子で、ゼガリアはアビア派の出身だった。(アビヤ派はアロンの子孫)

 かなり早い段階で、ヨハネは荒野に出た。-−彼が生まれたときすでに両親は年老いてい
たので、彼は、幼くして孤児となったらしい。エッセネ派は孤児を受け入れていたのでー
−彼らは純潔を守っていたので、そうする以外に人口を維持することができなかったのだ。
-―「荒野」というのはクムランのことらしい。エッセネ派の中に徒兄弟がいたということが、
イエスと弟のヤコブが、エッセネ派に入った理由かもしれない。

 イエスが処刑されたのは、ローマ人をユダヤから追放しようとする氾濫を率いたからだ。ヘロデ王
は、親ローマであるだけでなく、「ヘロデ派」と呼ばれる裕福なユダヤ人集団の支持を受けてい
た。彼らはローマの支配に満足していた人々だ。つまりイエスは、前門のトラに後門の狼という
状況で、危険な賭けに出たことになる。だが、彼がもくろんだ反乱は起こらず、イエスは有罪
とされ磔刑に処せられた。

459 ::2008/05/04(日) 19:46:02 ID:nIorFx9J0

とは言うものの、磔刑はわれわれが思うほど苦しい試練ではなかった。最悪の重罪人以
外では、十字架に釘で打たれるということはなく、手首と足首を縄で縛られるだけだった
のだ。さらに磔刑に処せられた人間は通常、死ぬまで何日も十字架に放置されたのに対し
て、イエスがそこにいたのは、たった6時間だった。なぜなら、その翌日が過越祭-−安息日―
―であり、過越祭を十字架ですごすことは立法で禁じられていたからである。

そこでサンヘドリン――ユダヤの最高法院-−の一員である裕福な人物がピラトに願い出てイエスの身体
をおろす許可を得た。彼はイエスの死に深く感動し、彼を近くにあった自分自身の墓に入れた。
イエスは、墓に入れられたが、アリマタヤノヨセフは、彼を公然と支援したとして数年間投獄された。
新約学者のバーバラ・シーリング(1992イエスのミステリー)によれば、イエスはその後、海面に含まれ

 その後、もしもリンカーン、ベイジェント、リーが正しいなら、イエスは地中海を渡って恐らくマルセイユに
いき、そこで宣教を続けた。バーバラ、シーリングによれば、彼は、最後にローマに行き、紀元64
よりあとのいつかに死んだ。恐らく71にはなっていたはずだ。


460 ::2008/05/04(日) 19:47:10 ID:nIorFx9J0

 そんなわけで、イエスが十字架で死んだという伝承は、アイレダ地方(後のレンヌ=ル=シャトー)で
は決して受け入れられることがなかった。なぜなら彼はその地で後半生を過ごしたからだ。
だが、もしそうなら、なぜ南フランスにはマグダラのマリアに関する伝承は根強くあるのに、イエ
スに関するものはあまりないのだろうか?たぶん、ヘロデ王もまたカリグラによってガリアに追放
され、69年にそこで死んだからであろう。逃亡者にとっては、あまり世間の耳目に集め
るのは得策ではない。

 すでに見たように、ピーター・ブレイクはイエスとマグダラのマリアの墓が並んでいるんもを発見し、
その位置はブッサンの絵に暗号化されていると考えている。

 もしそうなら、「王といえども彼から手に入れることはきわめて困難」な秘密とは、この
ことだろう。ことにルイ14世は偽りの王朝の王なのだから。

 次の謎は、メロヴィング王朝に関するものだ。ヘンリーリンカーンが研究を開始したころ、その詳細は
謎に包まれていた。キリスト教会がたゆまぬ努力で記録を検閲していたからだ。わかっている
のは、それがフランク族の王メローヴィス(メロヴィウス)にょって開始されたもので、彼は448年に
戴冠したことだ。つまり彼はアーサー王と同時代人らしい。彼の王国はフランスの大部分を含
み、南はマルセイユから北はアルデンヌまでに及んでいた。


461 ::2008/05/04(日) 19:48:11 ID:nIorFx9J0

 ヘンリー・リンカーンとリチャード・リーは、この人物の出生を物語る伝説に関する洞察に基づいて、『聖
なる血脈と聖杯』を書いた。つまり、メローヴィスの母親を孕ませた魚とは、キリスト教の教祖をさ
しているのではないか?初期キリスト教においては魚はイエスのシンボルとされていたのだ。ま
たリンカーンは、メロヴィング王朝の王はオカルトの達人であって、しばしば「呪術師の王」と呼ばれて
いるという伝承を引用する。だからこそ、彼らは天然の5角星型は位置を持つレンヌ=ル=シャトー
地域を重視したのだ。

 リンカーンによれば、メローヴィスの息子であるヒルデリヒ一世の墓が、1653年にアルデンヌで発見さ
れた。そこには莫大な財宝もあったのだが、中には明らかに呪具と見られるものも数多く
あったー―水晶球、馬の頭、黄金の牛の頭像などだ。さらに、純金の蜂が300個も見つ
かった。奇妙なことにナポレオンは戴冠式の衣装にこの鉢を縫い付けさせた。彼がメロヴィング家
に関心を持っていたことは、その王朝の家計図を作らせたことにも示されている。この家
計図は後に国立図書館に委託された文書に含まれることになる。

 メロヴィング家を巡る神話のひとつに彼らがギリシア神話のアルカディア出身だとするもの
があるー―恐らく『アルカディアの牧童』の墓の命はそれゆえだろう。


462 ::2008/05/04(日) 19:49:14 ID:nIorFx9J0

 その後、メロヴィング家からきているゴドフロウ・ド・ブイヨンは第一回十字軍を率い、そ
の死後は弟であるボードゥワン一世が(シオンの僧院)のメンバーに例の厩舎に移る許可を得た
彼らは、そこで探していたものを発見した。――エッセネ派が神殿に隠匿した巻物だ。そこに
は、メーソンリーのシンボルを満載した。(天井のイェルサレム)もあった。これらはフランスに持ち帰られ、
カタリ派の領地の只中にあるベズの城に安置された(リンカーンによれば、カタリ派を折伏しよう
としてこの地方に行った聖ペルナールは、この異端よりも自らの教会の腐敗に唖然とし、異端
者たちの倫理的純粋を褒め称えた)。

テンプル騎士団がフィリップ端麗王に捕らえられたとき、彼らの艦隊はこの文書をつんで出航し、
ロスリンにたどり着いた。だが(僧院)のほうはバル伯エドワールの下で存続した。フリーメーソンリーは1
640年に公然たる結社となった。これに先だって、薔薇十字団の奇妙な事件があった。
1614年、薔薇十字団の『友愛団の名声』と呼ばれるパンフレットが発刊され、全ヨーロッパにセン
セーションを巻き起こした。それは15世紀の神秘家・魔術師であるクリスチァン・ローゼン・クロイツの伝
記と証するもので、彼は106まで生き、その死体はその後120年間、謎の墓にーー腐
敗もせずに----保管されているという。さらにこのパンフレットは、これに興味を持つ人々に友愛
団の加入を呼びかけ、その意思を(口頭もしくは文書で)表明しさえすれば、その者は「接
触」を受けると述べている。参加表明をするものは数百名に上がった――だが知られてい
る限り、「接触」を受けたものは誰もいない。


463 ::2008/05/04(日) 19:50:22 ID:nIorFx9J0

 『名声』に続いて、更に二つの「薔薇十字」文書が世に出た。『宣言』(1615年)と、
大部の著作である『科学の結婚』(1616)だ。これらによって、薔薇十字団に対する熱
狂はさらに高まった。その著作はプロテスタントの神学者ヨハン・ヴァレンティン・アンドレイエであるとさ
れている。彼は「化学の結婚」の著者である可能性が最も高いが、ほかの二つに関しては
否定している。彼は理想に燃える若者で、新たな霊的運動を開始しようと熱望していたよ
うだー−当時の多くの人々と同様、今こそ新たな始まりのときと考えたのである。そして
重要なことに、彼は(秘密文書)において、(シオン修道院)の総長の一人と名指しされている。

 最後に、スコットランドとイングランドで、自らをフリーメーソンリーと称する結社が1640年ごろに誕生
した。カトリック教会はこれを憎んだが、初期のころは、――特にスコットランドでは――プロテスタントと
ともに多くのカトリック信者がこれに加入していた。

 すべてが明らかになったのは第二次世界大戦後、ピエールプランタールの下で、(シオン修道院)が
公に出ることを決断したときだ。その最大の成功はヘンリー・リンカーンがジェラール・ド・セードの
本を発見し、BBCにドキュメンタリーを作らせたことだった。


464 ::2008/05/04(日) 19:51:11 ID:nIorFx9J0

 その結果として世に出た『聖なる血脈と聖杯』は世界的なベストセラーとなった。

 とはいうものの、それは依然として、メロヴィング家の歴史に興味を抱いた共用ある少数者
の範囲内に留まっていた。それが2003年になって、(シオンの僧院)を扱うダン・ブラウンの
小説『ダ・ヴィンチ・コード』が空前の大成功を収め、イエスとテンプル騎士団の歴史を何千万という
読者に提示したのだ。それは恐らく、マルティン・ルター以来、最も広く読まれたカトリックへの攻撃文
書だろう。だがブラウンはどうやら、ソニエールとレンヌ=ル=シャトーをいれると話がややこしくなり過ぎ
ると考えたらしく、ソニエールの名は開巻後数ページで殺されてしまうルーブル館長の名前として
採用されただけだ。そしてそれは、本稿執筆時点において、キリスト教の歴史をめぐるこの奇
妙な物語の最新のエピソードである。


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